地域密着系サイファーズとNPO活動
−農村から一気に興す科学技術立国−
はじめに:新米農業者の憂鬱(200X年6月ある日の十勝平野)
A男は考えていた。目の前の小麦畑では出揃った穂の開花が始まっている。常識的にはここで一発目の赤かび病防除適期だ。しかしやっかいなことに今月は雨が多い。温暖化の影響か十勝でもこの時期の長雨、本州で言う梅雨が毎年のことになってしまった。こう言う時は十勝では赤かび病が大発生すると親父はよく言っていた。見上げると今日も朝から霧の様な雨が降ったり止んだりしている。局地天気予報では午前中は晴れ間も出るが、午後から崩れると言うし、ここで薬を撒いて直後に雨で洗われては安いとは言えない薬代がパーだ。
最近はますますコストダウンを迫られている大規模畑作地帯としては、無駄な農薬散布は命取りになる。おまけに、消費者の農薬嫌いの風潮は潔癖性と言いたくなるくらいだ。今では消費者は、農協のサイトに書かれている個々の栽培歴を確認してからでないと農産物を買わないらしいし、農薬散布回数が他より多いのはハッキリ言って苦しい。A男は悩んでいた。A男35才、将来は後を継ぐ約束で学費を出して貰った大学を卒業後、すったもんだの末勤めた札幌の広告会社を今年春退職して後を継いだ農家一年生である。
60代半ばで体力に自信が有った父親が去年暮れ急に他界したのをきっかけの転身だった。こんなことなら親父が元気なうちにもっと真面目に農業のことを聞いておくんだった。横で見ていた時には農業は簡単に見えた。農協の言うとおりにしてりゃ何とか作物は大きく成るように見えた。面倒なことは大抵農業機械がやってくれる。昔は共同で使い回していた機械も今では各戸で常備している。得意先回りで神経磨り減らす営業の仕事よりもよっぽど暢気な商売だと考えていた。甘かった。さっきから全くまとまらない考えを、後悔の念がまた遮っていた。とにかく早く結論を出さなければならない。なぜなら彼は新米農家である。昨今大流行の新規就農者を対象にした農業実習塾で一通り習ったもののトラクターだって思った通りには走ってくれない。何に付けても人より手間が掛かるのだ。農薬を撒かないのであれば、遅れているビートの除草にかからなければ今日も寝るのが深夜になってしまう。「大地と共に生きる。」農業塾のパンフレットには美しい言葉が踊っていたっけ・・・
そんなことを思いながら、A男35才、肩をうっすらと濡らす雨と父が残した50町歩の畑のまん中で一人焦っていた。
未来の農家が見る未来の夢
「はじめに」でフィクションとして現出させたのは未来の農業現場風景のほんの一端だろう。何となく暗くなる設定であるが、取り立ててそれを狙って誇張したとは考えていない。それは、今も起きている現実であるからだ。食料の生産と消費がかけ離れてしまった今日では、農作物は土地と種と肥料と適当な雨が有ればひとりでに出来ると考えている人も多いかも知れないが、決してそんなことはない。農業(一応ここでは畑作を想定している)は、植生の遷移過程を裸地から一年生草本植生(しかも人為的に選択された植生)に固定し、耕耘によりその遷移を毎年繰り返している一連の作業と言い換えることが出来る。自然状態であれば様々な種の植物が共存する筈の植生を一般には単一種のみ高密度に保つことは、畑を一つの生態系と捉えた場合非常にアンバランスな状態を強いているのである。当然、単純な生態系は様々な攪乱に曝されることになる。
物語で主人公A男を悩ませていた赤かび病などの病虫害、雑草害もそれらの一つだ。そのため、公的農業試験場、農業改良普及所、病害虫防除所、農協、農薬メーカーらの先人たちの精力的な取り組みにより作物保護のための多くの優れた対策が開発されているのも事実だ。しかし、その対策を実施あるいは実施の意志決定を行うのは何時の時代も農家個人であり、どんな場合も意志決定にはリスクが伴う点も忘れてはならない。
特にここ北海道十勝地方はいわゆる大規模畑作地帯である。農地面積も平均で30haを越し、農家の平均貯蓄1億円を豪語する農協が実在することを見ても、経営規模から言ってどの農家も一様に会社のオーナー社長を標榜しても何ら遜色を見ない。その彼らが言わば組織の浮沈を掛けた意志決定を日夜一人で行っている。例えばストーリーに登場する「コムギの赤かび病」は開花期に感染し、種子を直接犯す。激発した場合は、収穫皆無になることもある恐ろしい病害である。防除適期を逃したばかりに、7月の刈り取り時期に穂にカビが生えて肉色に変色した一面の麦畑を見たことがある。購入した種、肥料、積雪期間中の病害である「雪腐病」防除のための初冬の農薬散布、春先の融雪促進処理、労力と費用全てが無に帰した。農業の難しさを実感する光景である。総じてお天気に左右される農業の中でも、予測の当否で結果が天国と地獄程変わる農薬散布などは困難な意志決定の最たるものだろう。「不確実な未来を正確に予測する」、未来の農家もまたこのことを夢みていることだろう。
地域密着型分散頭脳「未来農業集団」とそれをバックアップする広域分散頭脳集団NPO/DGCbase
未来の農家もやっぱり未来の予測と意志決定支援を望んでいるのなら、それを現在に実現させちゃおうというのが、ここ芽室町で静かに進行中の分散頭脳「未来農業集団」構想だ。簡単に言えば、各農家が互いに今日する予定の作業、今行っている作業、作業が終えて考えたこと、感じたこと、つまり頭の中身を相互に垣間見えるようにしてしまうという一種のクローズドな掲示板だ。
写真1.芽室のサイファー吉田さん 写真2.収穫中のサイファー山上さん
話の出発点は、筆者が計画している耕地土壌の微生物性評価をオンサイトで行い、「土作り」として行われる様々な処理、農薬などと資材投入情報と共にリアルタイムで試験場のサーバーに送信するシステム構築に共鳴した農家が自発的形成したネットワークだ。掲示板と言っても忙しい時期に朝からパソコンに向かってキーボード叩いている時間があるような農家は皆無だから(そう言う意味でストーリーに登場する農家の忙しさは決して架空ではない)、入力は全て携帯端末や、装着型PCで行えるボタン形式のものにする予定だ。現在は農家で元プログラマー氏(写真1:今でも十分サイファーしている)や、芽室町の農業パソコンクラブ(MAP:平成12年現在会員数161名)の役員氏(写真2)らとフレームワークをほぼ終了し、農閑期に一気に立ち上げてしまう予定だ。とにかく「考えたことは直ぐ始める」が信条の人々の集まりだから、広大な畑のど真ん中に建っている試験場の立地を生かし、試験場をキー局にした無線LANネットを張ってしまうのも一案として検討中である(写真3,4)。
写真3.畑の中の試験場、北農試畑作研究センターの尖塔 写真4.無線LANで畑から直接通信
技術面よりも重要なことは、ある地域の農家が互いに今日何をするかが見えてしまった時、何が起こるかと言うことだ。例のA男氏などは手っ取り早く、多数意見になびいていくだろう。ますます篤農家の摩訶不思議な感性とは縁のない「考えない、感じない」農家を増やすことに貢献するのなら「未来農業」と銘打つに値しない。元来技術は人間の身体機能を補い、更に拡張することを使命としてきた。しかし、実際起きたことは、仮想の身体機能の拡張と引き替えに実体の身体機能を萎縮させた。車と言う移動技術を例に取れば容易に理解できるだろう。車のお陰で一日に数百キロの移動機能を手にしたが、その見返りが肥満と高血圧に萎えた足だ。情報通信技術が拡張するのが我々の情報収集力や直感的判断の元になる感性であるなら、見返りが萎えた感性などまっぴら御免だ。その意味からも、今回銘打った「分散頭脳」では感性を萎えさせない、むしろ鍛える情報技術を目指そうと思う。具体的方法として考えられているのが意図的に流される偽情報のクラスターだ。このため、常時ネットワーク接続者は、今目にしている情報が真であるか偽であるかの判断を迫られる。偽ばかりだと利用価値のない情報になってしまうが、適量の偽情報はむしろ必要と考えている。その時、ネットワークの中にどの様な情報のストレンジアトラクターが生み出されるか、時に打ち込まれるノイズのインパルスが集団の意志決定にどの様な干渉を残すのか、興味深い研究対象だと考えている。それでいて農家の不確実な未来の意志決定に幾ばくかの改善がみられるとしたら、「未来の農業」にまた一歩近づいたと言えるのではなかろうか。こう言う現場のしかも生身の人間をノードにしたネットワーク研究が今後農業分野の情報研究の主流になると確信している。この分散頭脳のシステム作りを技術的にバックアップしつつ情報技術を利用した新たな町作りを提案する分散型研究者集団NPO/DGCbaseも間もなく登場の予定である。これは全国に分散している情報、バイオ、工学、社会、心理、農学など広範囲な専門家が、求められるタスクに応じてサイバーで柔軟なタスクフォースを結成し問題解決を行う一種のサイバーシンクタンクだ。この冬、北海道十勝平野で産声を上げる「未来農業集団」の技術支援が彼らの初仕事となる。高度情報技術が可能にする最先端科学と同居する地方の町作りの新たなモデルとしても今後の動向を見守りたい。
おわりに:200X年8月ある日の十勝平野
A男はコンバインに乗っていた。一足早い収穫の秋だ。6月の憂鬱が嘘のように、さっきから「まわる〜よ」と鼻歌を歌いながら。歌は中島みゆきの「時代」だ。心境の変化には理由があった、悩んだあげくに相談した地元の農業試験場で紹介された電脳農家のグループ「未来農業集団」に入会したことだ。今では勧められた装着型PCとヘッドマウンテッドディスプレイを頭に着けて、常時近隣の農家の作業状況をチェックしている。そのサーバーを介して高速で送られてくるGIS情報で土地の肥沃度、衛星を使って測られる麦の充実度情報のチェックも怠らない。匿名性が守られているから誰が現実の誰かは分からないが、過去の経営実績から判断して信頼できるメンバーも見つけた。これでもう孤独な決断を迫られることはない。歌う中島みゆきが映る液晶モニターを通して黄金の畑を見ながら、A男は上機嫌だった。「だが」っと、ふと考えた。システムのバックアップをしているNPOのアナリストでもあると言う試験場の研究員が説明の最後に言った一言を思い出したからだ。別れ際に彼はこう言ったのだ。「ネットには意図的に偽情報が混じっています。やっぱり最後に頼れるのはご自分の感性だと言うことをどうかお忘れなく。お〜ほっほっほ」と。怪しい一言を振り払うように彼は鼻歌のボリュームを上げた。
続編